英語コンプレックスよ、さようなら

日本で生まれ育った日本人(純ジャパ)にとって、英語はやっかいな存在だと思う。英検やTOEIC、あるいは留学経験のある人なら、TOEFLやGMAT等、ペーパーテストで高得点をとっているとしても、ビジネスで通用するレベルに達するには、大きな隔たりがある。もちろん、言われていることがだいたい分かって、言いたいことが言える、どれくらい相手に響いているかは、わからないけれど、というレベルの人は多くいると思う。しかし、侃々諤々に議論している中で、しかも多くの場合は、相手の表情も見えず、間合いも取りにくい電話会議で、プレゼンスを発揮し、議論に貢献し、さらには、議論の方向性に大きな影響を与えるというのは、至難の技である。そういうレベルとは言わないまでも、グローバル会議に参加し、わいわいがやがやしている立食パーティーなどで談笑し、楽しみ、絆を深めたり、プレゼンスを発揮するということもそう容易ではない。そこには、なんとも言えない英語の壁、時には教養の壁が立ちはだかる。英語は、優秀な純ジャパ、特に優秀であればあるほど、コンプレックスであり、受け入れがたい存在ですらあることも多い。とはいえ、やるべきことは他にもいっぱいあり、英語ばかりに関わりあってもいられないというのが正直なところだと思う。なんとかしなければならないという気持ちもあるので、通勤の行き帰りに、ポッドキャストやCDなど聞いたりはするが、使える英語をものにするには程遠く、壁は以前そこにあるままである。「だいたい分かるし、だいたい話せるから、いいか。日々の仕事でそんなに必要でもないし」、というふうにも思う人も多いと思う。アメリカに来る前は、自分もそう位置づけて、気持ちの整理をしていたように思う。できない自分を受け入れるには勇気がいる。受け入れたとしても勝ち目があるかわからない、突破口がない。そんな戦いに挑むだろうか?

でも、その戦いに挑む純ジャパが、もっともっと増えなければならないとも思っている。モノを通じて、日本の良さを活かし、世界に貢献するということはできている。しかし、日本は次のレベルにいくべきだと思う。日本には、素晴らしいものがいっぱいあるし、人を通じて、世界を舞台に日本の良さを最大限に活かす、そのことに大きなポテンシャルを感じる。それが日本の閉塞感を破るためにやるべきことの一つであると思う。「グローバルで戦う侍、大和撫子よ、いでよ!」そう思う。現状に甘んじ、批判ばかりしても始まらない。まずは、自分から始める。そういう気持ちで40代も半ば過ぎて、アメリカに出た。ずっと日本で育ち、働いてきた純ジャパの僕にできるなら、世代の若い人ならもっとチャンスもあるし、できると思う。僕のチャレンジが同じような志を持つ人への励みの足しにでもなれば、嬉しくも思う。

アメリカに来てから、まる3年。聴く力も、話す力も格段に上がったと思う。しかし、ネイティブのように自由自在に操れるようになったかといえば、そこには、未だに壁がある。初歩的なレベルでは、意外にもサンドイッチを頼むのも最初は難しかったりする。アメリカは、基本、選択自由。パンから中身まで、選択肢が多く、自分が欲しいものを明確に伝えなければならないし、店員が移民で訛りがあることも多く、伝わりづらい。ただ、定型のパターンがあるものは、やればやるほど、コツがつかめてくるし、できるようになる。定型モノは、経験の関数であり、大した問題ではない。厄介なのは、シニアな経営幹部どうしの電話会議。非定型の会話で瞬時のレスポンスが求められるタイプだ。背景説明もなく、それぞれの視点で、自分のいいたいことを要点だけ話されていく。議論がそもそも噛み合っていないことが多いし、なんでそんなことを言い始めているのか、真意がわかりづらい。そもそも移動中にスマートフォンで参加したりするので、音質もかなり悪い。しかも、ずっと英語ばかり聴いて、疲れてきたり、文脈を失ったりすると、ハードディスクが止まるみたいに、頭が動かなくなり、英語が入ってこなくなることもある。頭がうにになる感じだが、それでも、意見をまとめ、次のステップを明確にし、仕事は前に進めなければならない。やれやれである。

僕の生業は、経営コンサルティングである。言葉が、仕事に介在する部分が多く、言葉は命みたいなところもあると思う。一方で、海外で活躍している日本人をみていると、言葉そのものが仕事というのは、少ないのではないか、そう思う。大リーグで長期的に活躍しているイチローは、超一流ですごいと思うが、勝負しているのは、言葉を介さないベースボール。同じように、プロフェッショナルで海外で活躍している人は、音楽、バレエ、デザイン、料理、服作りなど、どれもコミュニケーション手段としての英語は必要ではあるが、英語が主たる勝負、アウトプットの手段ではなく、言葉のハンディキャップが少ない分野に多い。もちろん、英語力があるほうが、メンタルコントロールにはプラスにはなると思うが、英語力が向上するから、バッティング技術が向上するわけでもないだろう。言葉を介する分野というのは、戦い方も違った難しさが求められるように思う。王様と私でブロードウェイで公演した渡辺謙さんやアメリカのTVドラマシリーズなどで存在感をだしている真田広之さんは、すごいなと思う。多分、いいようのない、屈辱感、フラストレーションを抱えつづけ、乗り越えてきているのではないかと思う。というのも、自分の表現手段、アウトプットの中での言葉の比重が大きく、日本語でパフォームすることと、英語でパフォームすることに、大きな隔たりがあるからだ。どんなに努力しても後天的に、ネイティブにはなれないという現実。そういうことが分かっていながらも、自分の表現手段を確立し、存在感を出していくという王道を歩むというのは、並大抵ではない。アメリカは、チャレンジ精神は応援するが、外国人だから評価に手心を加えるような温情は感じない。そもそも移民の国であり、外国人であることは特別なことでない。結果がものをいうし、そこに深い悩みがつきまとう。

経営コンサルティングも同様に、言葉が介在する余地が大きい。悩みを聞いて、それを解ける形に整理し、解を見つけ、言葉でストーリーを組み立て、言葉で伝えていく。そういう言葉の比重が大きい分野で、どうやって戦って、勝っていくのかというのが、アメリカに来てからの最大の悩みである。そもそも、言葉のハンディがある中で、勝てるのか?勝てない勝負に挑み続け、「いろいろ頑張ったし、ましになったけど」、みたいな慰めはあわれだし、チャレンジの代償、みじめなボロボロ感だけが残るのではないかという怖れはある。やるからには、自分なりの存在意義、プレゼンスを圧倒的に発揮したい。言葉の比重が大きい分野で、どうやって自分ならではの存在意義や突き抜け感を発揮していくのか、そこが、アメリカに来てからの最大のテーマである。英語力を高めるために、毎日毎日、ナマの英語を録音し、聴き、わからないところは、メンバーに聞き、話した。やればやるほど、マシにはなるが、未だに分からないことがあるし、ネイティブにはなれない。壁は以前そこにありつづける。どこまでやっても、出口がない戦いのようにも思えた。

大切な気付きは、意外なところからやってきた。アメリカに来てから、ずっと経営コンサルティングを行うチームを支える後方支援だったのが、大ボスから、前線で緊急プロジェクトを前線で指揮してほしいという依頼があったのだ。期間は2週間半、パートナー(経営幹部)4名、メンバーは、3人。内容は、20本ほどのインタビューを行い、そこから、示唆をまとめ上げていくという。数理的な分析もないので、本当に言葉だけに頼る必要があるプロジェクトである。しかも、会議はすべて電話会議なので、純粋に言葉だけが頼りの逃げ道の無いプロジェクトで、なかなかにしびれるものがあった。先日、最終の会議が終わった。結果を言えば、大ボスからは、「もう、言うことは何もない。素晴らしい出来だ」ということで、3分で会議が終わり、合格点をもらった。道中は、いろいろあった。4人のパートナーは、それぞれ異なる視点からいいたいことを言ってくるし、言っていることはころころ変わるし(進化するという人もいますが)、20本もインタビューしていると頭は、うにになるし、インタビュー中、メンバーは、英語ネイティブなのに、貝になって、質問してくれないし、なんだかなと思うこともあったが、なんとかなった。というよりも、正直に言えば、日本にいたときよりも、一段上の面白いものができたように思う。

これは、僕にとっては、大きな発見であり、パラドクスである。言語が介在する、言葉そのものがアウトプットという仕事で、言葉のハンディがありながら、言葉のハンディのない日本語で作ったものよりもいいものができる。そのことである。その要因を自分なりに考えてみた。一つ目は、アウトプットを作成する上での、肥やしになる意見の深さと多様性である。今回は、経験豊富なシニアなメンバーが業界の知見、組織分野の知見から、いい意見をもらったことがあると思う。異なる意見を言われたとおりに作るとゾンビみたなアウトプットになるので、そう簡単ではないのだが、多様な意見は、視点のもたせ方の大きな参考になる。2つ目は、それ以上に大切だと思うが、言葉のハンディが、逆に思考を鮮明にするということだ。言い方を変えると、コンサルティングにとって、言葉は重要ではあるが、実は、それほどまでに鍵ではないということだ。コンサルティングの鍵は、ものの見方・洞察、語るべきストーリー、ストーリを支えるファクトとロジックの3つだが、言語はそれを表現するための手段にすぎない。自由自在に操れる言語では、実は、使い勝手が良すぎるあまり、雑念や雑音が入りやすい。一方で、ハンディがある言語は、その分、簡潔、明晰でないと伝わらない。英語は、自由自在に操れない不便な言語ではあるが、日本語に対する甘えみたいなものがなくなり、より簡潔に大切なモノだけを考えるようになるというメリットがある。そう考えてみると、実は、英語のハンディは、思考をクリアする競争優位の源泉であったりし、弱みだとは思っていたものが、実は強みの源泉でもあるのではないかということに気付いた。村上春樹さんが、デビュー作「風の歌を聴け」を書いた時に、日本語で書いて、うまくいかず、英語で書いてみて、無駄なものをそぎ落とし、日本語で書き直して、自分の文体を見つけていったというのにも似ているかもしれない。自分の専門分野でのインサイト、語るべきストーリー、ファクト、ロジック、これが勝負する要素であるとすれば、グローバルで負ける気はしない。そこを勝負する軸に設定すれば、英語のハンディは、それを高めたり、強めたりする要素であったりする。それを突き詰めていけば、結果的に、英語の最後の壁も破れる、そういう感触を得たように思った。英語は難しくあり続けるであろうが、活路はあるし、負い目は感じなくなったな。貴重な気づきだ。

JinK.

 

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