アメリカンハイスクールの教科書で学ぶ世界史

アメリカの公立高校に通っている娘が世界史の勉強をしていたので、学校で使っている教科書をちょっと見せてもらった。アメリカンハイスクールの世界史の教科書なんて、どうせアメリカ中心主義で書かれているだろうし、歴史の教科書でこれは面白いと感じるものに出会ったことがないので、所々鼻につくつまらない読み物かなと思いながら読んでみた。すると意外なことにとても分かりやすく、頭にすっと入ってくる。以前、山川出版社の社会人向け教科書を読もうとして、途中で挫折したときとはまったく異なる感覚だ。なにが違うんだろうと疑問に思い、アメリカと日本の教科書を比較してみた。

色々と違いはあるが、最も大きな違いは、各トピックのまとめ方にあるように思う。
アメリカの教科書は、その時歴史は動いたという感じで、「何が変わったのか?」「どう変わったのか?」「なぜ、それが現代にとって意味があるのか?」という視点でまとめられている。一方で、日本の教科書は、「誰が?」「何を?」「いつしたか?」あるいは「何が起きたのか?」を羅列して説明するものが多く、なぜそうなったのか、今までと何が違うのかという脈絡がわかりづらく、頭に入りにくい。解釈の余地のない客観的な事実だけで構成しているといえば、聞こえはいいが、誰にも突っ込まれないように、最も大切な「なぜ?」という解釈を避けているようにも感じる。解釈が書かれていたとしてもとても抽象的な説明だ。端的に言えば、日本の教科書は、入れ込まなければならない用語を無理くりまとめた感じでストーリー性に欠けている。

例えば、娘が勉強していた啓蒙思想家ホッブスとロックについて見てみよう。

まずは、章の構成だ。日本の山川教科書では、「ヨーロッパ主権国家体制の展開」という章にある「17世紀〜18世紀のヨーロッパ文化」という節の「科学革命」という項目の中にホッブスとロックの話がちょろっとでてくる。構成としては、主権国家体制→文化→科学革命→ホッブス、ロックの政治啓蒙思想という流れになっている。もちろん政治啓蒙思想は、科学革命の影響を受けているがそのサブ項目ではないし、科学革命も文化に影響を与えているだろうが、文化のサブ項目ではないだろう。なぜそういう構成にしているのかという理由がわからない。

一方で、アメリカの教科書は、「啓蒙運動と革命」という章にある「ヨーロッパにおける啓蒙運動」の節の冒頭で、ホッブスとロックの話がしっかりと紹介される。民主主義はどこから来たのかという問題意識があって、その問題意識に答える形で「啓蒙運動と革命」という章を位置付け、この時期に人を治める権利、統治権に対する考え方に大きな変化があったとしている。啓蒙運動というと難しく聞こえるが、英語では、Enlightmentなので、開眼したという意味で捉えた方がわかりやすいかもしれない。要は、こんなひどい政治をしていて、君主は統治権を神から授かったというのは変だよね、統治する権利は治められる人々の合意により生じるべきだよねという考え方の大きな変化があり、その変化を引き起こすのに影響を与えたのがホッブスとロックという位置付けだ。

次に具体的な説明を見てみよう。山川の教科書では、下記の説明だ。

「リヴァイアサン」を著したホッブス(1588〜1679)は、自然状態では、「万人の万人に対する戦い」になるとし、これをさけるために契約によって成立させられた国家主権の絶対性を認めるべきだと主張した。

これに対し、ジョン=ロック(1632〜1704)は、「統治論二篇」などの著作において、君主が人民の自然権を犯した場合は人民の側にも契約を解消する権利があるとして、革命に理論的な基礎を与えた。

何となく分かるような、でもよく分からないような説明だ。僕が学生の頃は、16〜17世紀、ホッブス、リヴァイアサン、万人の万人に対する戦い、国家主権の絶対性のようなキーワードを覚えて、暗記力を試すようなテストが多かった。教科書も覚えておくべきキーワードは太字になっている。

一方で、アメリカの教科書は、ポイントだけ日本語で要訳すると、

ホッブスは、人間は生来、利己的で貪欲な厄介な存在であり、秩序を維持する政府なしには、「万人の万人に対する戦い」になり、人生は孤独で貧しく、悲惨で残酷で短いものとなる。そういう無秩序状態を避けるために人々は、彼らの権利を統治者に委ねなければならない。その代わりに人々は法と秩序を得る。この社会的な合意のことを社会契約と呼ぼう。人々は自己の利益のために行動するので、統治者には絶対的な力が必要である。そのため最適な統治者は、海の怪物リヴァイアサンのように畏怖の念を起こさせる力を持っていなければならず、そのような統治の形態は、絶対君主制であると考えた。

一方で、ロックは、人間性に対して異なる、より肯定的な見方をしていた。人は経験から学び、自己改善できると信じ、人々は理性のある存在として、自ら事を治め、社会福祉を増進することができると考えた。全ての人は生まれながら自由で平等であり、生来の権利(生きる権利、抑圧・制限からの解放、財産権)を保有する。統治者の役割とはこれらの権利を守ることにあり、もし守れない場合には、人々はその統治者を打倒する権利を有しているとした。統治力は、人民の合意により生じるというロックの信念が、現代の民主主義の基盤となっている。

皆さんは、日米の説明を比較して、どう感じるだろうか?
僕は、歴史の専門家ではないので、理解違いで要訳が間違っているところがあるかもしれないが、アメリカの教科書の方が分かり易く感じた。なぜなら、浅い解釈かもしれないが、彼らがなぜそう考えたのかという思考プロセスがわかるからだ。教科書の日本語訳の分かりにくさもある。例えば、natural rights。一般的には、自然権と訳されるが、人が生まれながらに本来持っている権利、生来あるいは生得の権利と訳したほうがわかりやすいように思う。厳密に意味をたぐっていけば、人為的なものが入らない状態でもともとある権利と考えてもいいので、自然権でもいいかもしれないが、自然状態とか、自然権とか、自然法とか、わかりやすい定義もなく使われると、何を意味しているのかよくわからなくなる。加えて、ここでの大事なポイントは、統治力が神から与えられたものではなく、国民との合意、ある種の契約により与えられると考え方が大きく変わったところ、王権神授説が否定されていくところであると思うが、それが日本の教科書では欠落しているように感じた。日本の教科書は、多分、盛り込まなければならないキーワードが多く、紙面の制限がある中で、正確さを期した苦肉の策で無難にまとめられているという印象で、そのため大局的な歴史の流れがわかりづらくなっているように思った。

海外で様々な国の人と働いていると、歴史観、特に現代から遡って、どこからそういう問題が生まれてきたのか?なぜそうなっているのかという自分なりの理解を持つことが大切だと感じる。そういう歴史観を前提に、グローバル社会の中で、相手や他国をどう理解し、日本をどう位置づけ、世界に付加価値をつけていくのかということを考えることで、日本の活路や平和に貢献していく道筋が見出せるのではないかと思う。最近、高校の日本史、世界史で学ぶ用語を現在の半分弱の1600語程度に減らし、社会の成り立ちや流れで学ぶ歴史教育を重視するという提言が出されているようで、それ自体はとてもいいことだと思う。日本人にとって、わかりやすく、歴史観を醸成するのに役立つものになればと思う。日本とアメリカの教科書を比較してみたら意外に面白かったので、一部を読んだだけだが、参考までに感じたことをまとめてみた。他のところも見てみよう!

JinK.

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