ボストンに来てから、早、一か月が経とうとしている。
ボストンと言っても、実は、ボストンではなく、ボストンの西にあるブルックラインというところに、住んでいる。とはいえ、ニューヨークのブルックリンなのか、ブルックラインなのか、混乱しそうで、説明がややこしいので、便宜上、ボストンに住んでいるということにしている。
ボストンには、4月30日に到着した。
4月中には、何としても渡米したいと思っていたので、何とか死守できた形だ。海外生活に不慣れな家族が、日常に生活を送れるようにするため、セットアップに時間を使いたかったというのがその理由である。
実は、渡米前から、住む場所は見つけていた。治安やセキュリティ、娘たちが通う学校、娘の習いごと、通勤距離、当面は車非保有という条件を重ね合わせると、住む場所は、自ずと限定されてくる。加えて、今回は、グーグルアースで、ほぼ、街の様子が分かること、不動産屋に、写真をとってきてもらったことから、それほど、大きな問題なく、住む場所を決めることができた。(後から、それが問題になるのだが、それは、また後ほど)
アパートが決まっているとは言え、テーブルも椅子もベッドもなければ、フライパンもお皿もお箸もない。少しずつ必要なものは買ってくるが、鍋も一つしかないと極めて不便だし、テーブルも、段ボール箱だと、最初はピクニック気分だが、毎日だと、気が滅入ってくる。
食卓代わりに使ったアマゾンの巨大箱
本当に、何もモノがないところから、生活を始めると、あらためてモノが生みだしている価値に気づいてくる。多分、娘たちも、あの不便な生活の後に、「ありがたい」テーブルや机がやってきた日のことを忘れないと思う。
日本の家にあったモノは、知人にあげる、リサイクル屋に売る、廃棄するの運命をたどった。その全てのモノを、「モノが生みだしている価値」で見てみると、あるときは生みだしていたかもしれないが、7割くらいは、既に価値を生まなくなったもので、我が家では不要になったモノだ。モノによっては、価値を生み出す機会も与えられないものもある。ゴミ屋敷とまでは言わないが、なんとも気が滅入る状況だ。
一方で、今、この瞬間は、家族にとって、本当に価値を生み出すものだけに囲まれて、暮らしているような気がする。片付かない重苦しさからも解放され、いろいろな呪縛から解き放たれて、何とも身軽で軽快な感じだ。
「全てモノがその役割を果たし、活かされている」そういう感覚だ。
もちろん、家族4人の物欲は湧き出でてくるものではあるが、この瞬間を忘れずに、「質素倹約」を旨に暮らすことにしよう。
JinK.